|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 善 : [ぜん] 【名詞】 1. good 2. goodness 3. right 4. virtue ・ 寺 : [てら] 【名詞】 1. temple ・ 江 : [こう, え, ごう] 【名詞】 1. inlet 2. bay ・ 江戸 : [えど] 【名詞】 1. old name of Tokyo ・ 江戸川 : [えどがわ] 【名詞】 1. Edo River ・ 戸 : [と] 【名詞】 1. door (Japanese-style) ・ 川 : [かわ] 【名詞】 1. river 2. stream ・ 区 : [く] 【名詞】 1. ward 2. district 3. section
善養寺(ぜんようじ)は、東京都江戸川区東小岩にある寺院。真言宗豊山派に属し、大永7年(1527年)の創建と伝わる〔〔 広報えどがわ2011年10月20日号、2012年8月12日閲覧。〕。末寺130余りを擁する中本寺格の寺院であり、「小岩不動尊」の別名でも知られている〔。 境内に生育する国の天然記念物「影向のマツ」は、香川県の「岡野マツ」〔平成5年(1993年)5月に枯死している〕との日本一争いで名高い〔〔『新日本名木100選』66-67頁〕〔『読売新聞』2011年9月26日付朝刊、第14版、第33面。〕〔渡辺、145頁。〕。このマツの他に、「天明3年浅間山噴火横死者供養碑」などの文化財を所有している〔『江戸川区の史跡と名所』32-34頁。〕〔江戸川区登録文化財一覧(平成24年5月25日現在) 江戸川区役所ウェブサイト、2012年8月12日閲覧。〕。境内では5月下旬にバラ・サツキ展、10月末から11月初めに菊花展が開催され、多くの人を集めている〔〔〔『え・ど・が・わ ゆったりガイド』58頁。〕〔『え・ど・が・わ ゆったりガイド』77-81頁。〕。「影向のマツ」のエピソードや「式守伊三郎報恩碑」など、大相撲と縁の深い寺でもある〔〔横綱松と報恩軍配 善養寺 相撲評論家之頁、2012年8月12日閲覧。〕。 == 歴史 == 善養寺は江戸川近くに位置し、星住山地蔵院(せいじゅうざんじぞういん)と号する〔。寺の伝えるところによると、山城国醍醐山の頼澄法印という僧が、夢告に従って大永7年(1527年)にこの地に至り、不動明王を祀ったのが始まりという〔〔。室町時代後期の連歌師柴家軒宗長が永正6年(1509年)に著した紀行文『東路のつと』にこの寺に関する記述があるため、実際の開山はこれより遡るものと推定される〔〔。 江戸時代の文化・文政期に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』では、善養寺について「新義真言宗、山城国醍醐報恩院末、星住山と号す」と記述している〔善養寺|小岩不動尊、御朱印寺、影向の松、江戸川区東小岩にある真言宗豊山派の寺院 猫の足あと、2012年8月11日閲覧。〕。「星住山」という山号のいわれは、境内にかつて生育していた「星降りマツ」(ほしくだりマツ)に由来する〔〔善養寺星降り松(江戸川区)・大東京と千葉県の境市川の鉄橋(江戸川区) 都市・東京の記憶-Tokyo Archive 東京都立中央図書館ウェブサイト、2012年8月12日閲覧。〕〔影向(ようごう)の松と石 謎★伝説探査 けさらんぱさらん、2012年8月12日閲覧。〕。その昔、星の精霊がこのマツの梢に降り立ち、やがて赤青黄の石に姿を変じた。その石は「星精舎利」(せいせいしゃり)と呼ばれて寺の宝とされたが、いつのころからか赤と黄の石は紛失して青い石のみが残った。この出来事から山号を取って「星住山」としたという〔〔。なお、星降りマツは昭和15年(1940年)に枯死し、その後2代目が植えられた〔〔。 慶安元年(1648年)9月に、徳川将軍家から寺領10石の朱印状を拝領し、賢融法印(慶安4年寂)が中興した〔〔。このころの善養寺は、下小岩村の密蔵院や東養寺、船堀村の光明寺、東宇喜田村の真蔵院など130余りの末寺を擁し、真言宗豊山派の中本寺格として知られた〔〔。 天明3年(1783年)に起こった浅間山の大噴火では、犠牲になった人馬のおびただしい遺体が利根川から江戸川へと流れ下って善養寺近くの中州などに漂着し、舟の通行にも支障をきたすほどであった〔〔。当時の様子が喜田有順『親子草』に記されている。下小岩村の人々は、その遺体を善養寺の無縁墓地に葬った。十三回忌にあたる寛政7年(1795年)に境内に横死者の供養碑を建立し、永く菩提を弔った〔〔。この供養碑は、昭和48年(1973年)に東京都指定有形文化財となっている〔東京都指定文化財情報 、2012年8月13日閲覧。〕〔〔。 善養寺の名が広く報道されたのは、昭和54年(1979年)頃から昭和55年(1980年)にかけて起こった「日本一のマツ争い」だった。境内に生育する「影向のマツ」と香川県大川郡志度町(2002年4月1日に他の4町と合併してさぬき市となる)の真覚寺境内に生育していた「岡野マツ」は、双方とも「わがマツこそ日本一の名木」と譲らず、1年余りにわたって論争が続いていた〔〔〔〔。その争いを見かねた大相撲立行司の木村庄之助が仲裁に入り、「どちらも日本一につき、双方引き分け」と裁いた。地元小岩の出身で、当時日本相撲協会の理事長を務めていた春日野親方も「双方を東西の横綱に推挙する」と庄之助の裁きを後押しし、二人の計らいによって「日本一のマツ争い」は無事に解決を見た〔〔〔。影向のマツは、2011年9月21日に国の天然記念物に指定されている〔〔〔善養寺影向のマツ(国指定文化財等データベース) 文化庁ウェブサイト、2012年8月12日閲覧。〕。 境内では、毎年3月末に植木市(3日間)、5月下旬にバラ・サツキ展、10月末から11月に菊花展が開催される〔〔〔〔。3月末の植木市は別名を「雨の植木市」という〔『読売新聞』2013年4月17日付朝刊、第14版、第34面。〕。江戸時代、星降りのマツに住み着いていた白蛇(水の女神弁才天の化身といわれる)を植木職人がなぶり殺しにしてしまった。そのとたんに、大雨が降りだした。それ以来、植木市の時期には必ず雨が降るようになったと伝えられる〔。実際に2013年の時点で過去10年の東京の天気を調べたところ、植木市の時期に雨が降らなかったのは2004年だけであった〔。ただし、この植木市はホームセンターやスーパーマーケットなどでの植木や鉢花の販売が普及するにつれて参加する業者が少なくなっていき、2009年頃を最後に市は開かれなくなっている〔。菊花展は正式名称を「影向菊花大会」といい、愛好家を多く集めている〔〔〔善養寺・影向の菊と松 Chang家の庭と昆虫、2012年8月12日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「善養寺 (江戸川区)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|